鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
群馬県の桑畑・養蚕の歴史などを、初心者でも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
若葉波うつ桑畑
山のおくまで養蠶の
ひらけしさまの忙がしさ
さらに読みやすく!
若葉波うつ 桑畑
山のおくまで 養蚕の
ひらけしさまの 忙がしさ
さあ、歌ってみよう!
♪わーかばなみうつ くわばたけー
♪やーまのおくまで ようさんのー
♪ひらけしさまのー いそがしさー
高崎駅→新前橋駅→前橋駅→伊勢崎駅→桐生駅→足利駅→(至・小山駅)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
かつて生糸・養蚕で栄えてきた群馬県
群馬県はかつて、養蚕つまり
- カイコの育成
- 生糸の製造
- また織物の製造
が盛んでありました。
生糸・織物の生産に不可欠だった、桑畑
織物を作るには、生糸が必要です。
つまり、生糸の生産がたくさん必要だったことを意味します。
そして生糸は、蚕(カイコ)という幼虫が生み出します。
さらにカイコは桑(クワ)を食べて育つので、たくさんの桑を作るための桑畑が必要でした。
つまり桑畑は、カイコという幼虫が食べる桑を育てるための畑ということになります。
上記を簡単にまとめると、以下のようになります。
- 桑→カイコが食べる植物。
- カイコ(蚕)→生糸を生み出す幼虫。
- 生糸→織物を造る材料。
- 織物→昔の和服。
明治時代の「殖産興業」
明治時代の日本は「殖産興業」といって、欧米諸国に対して追いつけ追い越せといわんばかりの勢いでした。
つまり、
- カイコ(蚕)や生糸、織物を大量に輸出して製造し輸出して、
- それらを海外に向けて販売することで、大きな利益を上げる。
- その利益によって、軍事力を強化し、欧米列強に対抗する。
といったことが、近代日本にとって、また明治時代の日本にとって重要なことでした。
それが、日本の世界における地位の向上に繋げることにもつながったからです。
かつてたくさんの桑畑があったであろう群馬県
歌詞から察するに、鉄道唱歌の当時の明治時代には、群馬県では見渡す限りに青々とした、たくさんの若葉からなる桑畑があったものだと思われます。

赤城山と、群馬県の見渡す限りの景色(上越線の車窓より)(群馬県)
そしてその桑畑は、山の奥まで広がり、その開かれるさまは、まさに明治時代において
そこから生糸・織物を作って、
たくさん外国に輸出して、国を発展させるんだ!」
といった、当時の国・明治政府の意気込みを感じさせます。
現在では、明治時代の殖産興業ほどの緊急性はなく、また織物の生産も現代ではそこまでは盛んではありません。
そのため、どうしても「しまむら」や「ユニクロ」などに勝てない、当時ほどの桑畑の数はそこまで多くはないかと思われます。
しかし、それでも桑畑や養蚕、生糸、織物などの生産で栄えてきた歴史とともに今の群馬県はあるわけで、やはりその重要性は無くして語れません。
官営模範工場「富岡製糸場」
そして生糸や織物を作るために必要な、官営の模範工場として作られたのが、群馬県富岡市の富岡製糸場です。
「官営」とは、簡単にいえば「国による運営」という意味です。
対義語は、「民間」などになると思います。
つまり、国が予算をかけて、国を上げて作った工場ということになります。
それだけ国の存亡をかけた、気合いの入れようであることが伺えます。
模範工場とは、国による
という意味合いの工場になります。
富岡製糸場については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

かつて群馬県から運び出されていた生糸
また同じく、織物の生産として盛んなのは東京都の八王子が挙げられます。
八王子で生産された織物は、
- 現在の横浜線を通って横浜まで運ばれ、
- 横浜港からは船に載せられて、海外へ輸出され、
- それによって、大きな利益を上げた
というわけです。
一方、群馬県で生産された生糸や織物などは、
- 現在の高崎線から、東京を経由して、
- 横浜へと運ぶ
というルートでした。
しかし戦争が激化して、東京がもし不通になった場合に備えて、
と縦に南下できるための路線として、1930年代に八高線ができました。
群馬県ではこのように、歴史的に桑畑・養蚕・生糸・織物の生産に非常に重要な役割を果たしてきました。
こうした群馬県の産業のおかげで、海外へ多く輸出し、近代日本の発展に繋がってきたのでした。
群馬県を旅行・観光される際には、こうした生糸や織物などの歴史も思い浮かべながら探訪すると、より群馬県の観光が充実したものになります。
次回も、両毛線の話題へ
次も、両毛線の解説をします!
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